2007-03-31

2006-03-28(火) CVカテーテル挿入

 朝6時に起床の放送が静かに流れた。間もなく朝の検温にナースが各病床を回ってきた。また、朝食前には採血があった。はじめ輸血(blood transfusion)してもらいたくて入院したのに血を抜かれてばかりである。今日治療の為に必要なCVカテーテルを胸に挿入するという。IVH(intravenous hyperalimentation)カテーテルとも言う。CVカテーテルといわれても良く分からないが、要するに中心静脈CV(central vein) (主として上大静脈)内にカテーテル(catheter、点滴の管と考えればよいか) の先端を挿入・留置するというのだ。その管(カテーテル)から抗癌剤(anti-tumor agent)等を点滴する事になる。なんだかゾッとする。しかし胸にそんなものをつけてしまえばもう風呂にも入れないと思い、ナースに聞くと、シャワーの予約を取ってくれたので、朝食後に昨日の右手首のカテーテルが濡れない様に防水してもらい、そろりそろりとシャワーを浴びた。この病気は感染が怖いのでお風呂(湯船に浸かる)のはNGだそうだ。シャワーならお湯が上から下へ流れ落ちていくので、許可しているそうだ。ただ、私がまだ極度の貧血(anemia)なので、万が一気分が悪くなったりめまいがしたらすぐにナースコールをする様にと心配そうにナースから注意された。そう、血小板(PLT:platelet)の輸血はあったが、赤血球(RBC:red blood cell;erythrocyte;red blood corpuscle)の輸血はまだなのである。

 11時、CTカテーテル挿入が昨日骨髄穿刺 (マルク:Mark;bone marrow puncture)をしたのと同じナースステーション一角の処置室で行なわれた。また3人の医師団が揃っていた。施術者はTS先生。このCVカテーテル挿入は非常に辛いものであった。例えば脈を診る時は手の親指側の手首静脈が見えるのでそこを押さえればよいと理解できるが、右の鎖骨下を走る静脈(鎖骨下静脈:subclavian vein)といわれても、体表から血管が透けて見えるわけでもないし、一体どうやって胸からその静脈を見つけるのだろうか?その静脈にカテーテルを挿入するというのだ。先生にどうやってその静脈を見つけるのかと聞いてみると、挿入法というのに沿って探り当てるのだと言う。やっぱり最後は勘なのだ。うまく見つかるというのが不思議だが、先生は熟練している様なので、信じて任せるしかない。

 またベッドに仰向けに寝、胸を消毒され一つ穴開きの布をかけられ、視界がさえぎられた。「チクッとしますよ」との掛け声で麻酔(anesthesia)がされ、「それでは今からカテーテルを挿入していきます」といわれた。どんな風にされているのかわからない。女性の場合、静脈が細くて当たりにくい(たぶん静脈に行き当たりにくい、と言っているのだろう)等と聞こえ、首をもう少し左に曲げてみてとか、もう少しだけ戻してとか色々言われた。麻酔は効いているのだと思うのだが、なんとも不快な痛みと言うか不自然な異物感があり、布が顔にかぶりマスクもしているせいで息苦しく、なかなか終わらないので泣きそうだった。いや、もう半泣きだった。私のうめき声を聞いてKB先生が布の間から私の顔を覗き込み、大丈夫ですかと声をかけてくれ、看護師さんはしっかりと手を握って頑張ってと励ましてくれた。

 「ちゃんと入りました、後は糸で固定しますよ」、「3ヵ所とめますよ」・・・「はい、終わりましたよ」とやっと言われ布がはがされると、右胸の鎖骨の下あたりから管が2本出ていた。管の直径が違うそうだ。看護師さんが手慣れた様子でその先端をガーゼで包んでくれた。ここから抗癌剤が入るのかと思った。先生の話では手首のカテーテルから抗癌剤を入れて万が一、血管の外に漏れた場合、(抗癌剤の種類によっては)腕がすぐに腐ってしまうのだそうだ。コワッ!! その為CVカテーテルは無くてはならない点滴ルートとなると言う。

 間もなくCVカテーテルが正常に挿入されているかどうかを確認する為に胸部のレントゲン(an X-ray (photograph))を撮りに行かされた。病室に戻ってしばらくして、ちゃんと挿入されていましたので安心して下さい、と先生が報告に来られた。非常に緊張してとても疲れたのでベッドに横になりたかったが、この右胸から出ているCVカテーテルが気になって、横になっても痛みがあり、リラックスなど出来ない。右胸に非常な違和感がある。そして、これからずっとこの状態で過ごさなければならないのだ。

 午後からは早速化学療法の抗癌剤点滴を始めるとの事であった。

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080925追記: IVH挿入は大変な病気になった事を嫌でも自覚せざるを得ない出来事であった。入院中のIVHにまつわるトラブルや体験談、及びIVH自体の詳しい形状や情報等を知りたい方は、当ブログ『生亜紫路2006』の右サイドにある【ラベル:IVH】をクリックされると、色々と出てくるので、ご参照下さい。
  尚、このブログとは別に、退院後の通院記録や生活等を、もうひとつのブログ『生亜紫路』に現在進行形で書いている。

2006-03-27(月) 卵子保存について

 急性リンパ性白血病(acute lymphocytic leukemia;ALL)+骨髄性(myelogenous)の可能性もあるかもと宣告され、説明は続いた。最近は何かと厳しくなってきているのだろう、『輸血ならびに血漿分画製剤使用の同意書』(これは輸血前にサインしたと思う) とか、『病理組織材料の診療目的外使用に関する同意書』等、一々同意書などにサインしなければならなかった。家族のサインが必要な所は付き添いの長姉がしてくれた。

 不良因子の有無を調べるのに欠かせない「体細胞遺伝子解析」(bcr-ablという遺伝子を調べたい)を実施したいが、希望するか、希望する場合その結果を聞くか聞きたくないか、またその検体の医学研究使用可か拒否か、等など。もしもの場合、せめて医学研究の1データとしてでも貢献したいという気持ちが働き、全てYesとサインした。最後の欄がなんとなく複雑であった。『不慮の事故等で遺伝子解析の結果を聞くことが出来なくなった場合、どうされますか?(いずれかに丸をつけてください) ・誰にも伝えない。 ・下記の人に伝えて欲しい。』要するに私が死んじゃった場合って事ね。ここも長姉に伝えて欲しいと記入した。

 治療によって起こりうる副作用(side effect)・合併症(complication)の説明、臓器への負担・ダメージ、輸血(blood transfusion)・感染症(infection)の予防等など・・・そして「化学療法(chemotherapy)後に発生する不可逆的な合併症として男女とも不妊症(sterility)になる場合がある、その場合、卵子(egg;ovum)を前もって保存する方法がある」、という話をKB先生は続けてされた。このところだけ長姉がいきなり「ああ妹(私の事)は、それは関係ありませんから」と決め付ける様な口調で先生に言った。

 横で聞いていた私はビックリした。いくら結婚はしないと言ってきたからといって、何故私自身に関わる問題を姉がどうこう言う権利があるのだろうか。それに不思議な事に治療によって不妊になる可能性があると聞いた途端、将来妊娠(pregnancy)する可能性、子供を産む可能性を残したいと、半ば本能的なものなのだろうか? そう思った矢先であった。自分にそんな感覚が潜んでいたとは知らず我ながら驚いたが、姉の発言にクレームを付けると、姉は「それなら相手をまず探さないと」という。今そんな事は問題ではない。残せる可能性があるのなら残したいと思った私の意志の方が大切なのではないだろうか。

 卵子保存は基本的に結婚した女性に適用されるらしいが、もっと若くして(例えば学生等)病気に罹る人もおり、将来的に残せる様に法改正をすすめていて実際に未婚の男女の精子(spermatozoon, sperm, sperm cell)や卵子(egg;ovum)の保存をしている病院もある、と説明を受けた気がする(よく覚えていない)(※)。しかし、現在の私の状態は卵子を採る暇はなく、一刻も早く治療を開始した方が良く、この化学療法が一通り終わった時点で改めて考える事にしましょう、という事だった。

 女性は月経(menstruation;menses)というものがある。約一ヶ月のサイクルで卵子が成熟して排卵(ovulation)される。そう簡単に卵子が採取出来ない事は想像ができる。しかし、過酷な副作用も生じる化学療法の間に卵子は傷つくのではないだろうか、それからでもまだ大丈夫なのだろうか、疑問は尽きなかったが、その時期がきたら改めて先生に教えてもらおう、今は治療に専念するのが一番なのだろう、と心の中で言い聞かせながら、化学療法実施についての同意書にサインをした。

 入院初日の今夕から薬の服用が始まった。防カビ剤という。22時になり消灯となったが、すぐに寝られるものではない。病室は暑く、詰め所に響くナースコールが聞こえてくる、ナースが見回りに来る等、騒がしくてよく眠れない夜を過ごす。

【入院時の記録】
14時、貧血で、体温:36.9℃、血圧:132/87(脈拍77)、SpO2:97という状態で入院。

【血液検査結果】
WBC(白血球数)51,100[/μl]、HGB(ヘモグロビン)6.1 [g/dl]、PLT(血小板数)16,000[/μl]、好中球(Neutrophil) 2%、芽球(Blast) 83%、リンパ球(lymphocyte) 15.0%、CRP(炎症反応)0.3 [mg/dl]、LDH 418 [IU/l]、γ-GTP 230 [IU/L]、Ig-A 101.4 [mg/dl]、Ig-G 505.0[mg/dl]、Ig-M 82.8 [mg/dl]

【内服薬】
・ マーズレンS顆粒[1.5g/day]:1日3回
・ ミコシストカプセル[100mg](防カビ剤):1日1回毎夕食後
・ バクタ錠(防カビ剤):1日1回毎昼食後
・ ザイロリック錠[100mg]1日2回毎朝・夕食後

※ 補足だが、2007年1月23日朝のニュースに『未婚女性も卵子保存容認…産科婦人科学会 (2007年1月23日)』というのが流れた。これは私が説明を受けた時はまだ未承認だった。白血病など血液のがんの治療で不妊になる恐れのある未婚女性の卵子を、将来の体外受精のために凍結保存する事が出来るというニュースである。間に合う人、模索している方は色々調べてみて下さい。
http://health.goo.ne.jp/news/20070122i316-yol.html 
http://health.goo.ne.jp/news/20070122a4570.html 

※追記事項(080829):
【卵子保存関連で、「生亜紫路」の『2008/08/27 (水) 卵巣組織保存について』もご参照下さい。】

2006-03-27(月) 病名宣告

 夜、病院に再度来てくれた長姉としばらく呼び出しを待って、先生の診断を聞きに行く。 主治医のKB先生、骨髄穿刺(bone marrow puncture)を行なった男性のマスクで良く分からないが顔の大きそうなTS先生、若い女医のFS先生の、計3人の医師団と差し向かいで説明を受ける。説明は緊急外来で診察して下さった主治医のKB先生がして下さった。

 『化学療法実施についての説明文書』という5ページの書類等が用意されており、その文に従って説明が進められた。入院前インターネット検索でザッとだが調べた時の、個人的・素人感覚での感想は、成人の急性白血病は骨髄性(myelogenous)の方がリンパ性(lymphocytic)より治る率が高そうだなぁ、であった。果たして自分はどちらだろうかと不安に包まれ聞いていると、「あなたは『急性リンパ性白血病(acute lymphocytic leukemia;ALL)』と診断されました」と宣告され、難しい方の白血病だったんだと内心、複雑な心境であった。しかも「更に、まだ詳しく調べなければ断定出来ないのですが、骨髄性の白血病もあるかもしれません」と。リンパ性でかつ骨髄性なんて聞いたことがない、どちらなのかと聞き直すと、リンパ性が主で骨髄性が副でくっ付いているかもしれない、という表現をされた。性質の悪い白血病に罹ったのかもしれない。

 化学療法(chemotherapy)名はHyper CVAD療法でこの病院で最近採用された治療法という。その為治療成績も俗に言う5年無病生存率がまだ出ておらず、データは4年分だそうだ。他の治療法を選択する事も可能と言われても知らないので選択しようもないし、そんな時間的余裕もなさそうであった。先生が言われる、この病院がいいと思って実施している化学療法でお願いします、と答える。治療は同じ治療コースが計4回、4クール(独 Kurs:治療期間)と表現されるが、計6ヶ月位かかるのだそうだ。私の場合、その後に骨髄移植をした方が良いと思われる、との事だった。一体どれ位入院する事になるのだろうと、気が遠くなってきたが、死の恐怖はぜんぜん起こらず、未だどこか他人事の様に先生の説明を聞いていた。

2006-03-27(月) 初めての骨髄穿刺(マルク)

 緊急入院、採血の次に待っていたのは骨髄穿刺(bone marrow puncture)だった。ドイツ語で骨髄を意味する『マルク(Mark:骨髄穿刺のこと)』とも言う。私の白血病(leukemia)の種類を詳しく調べる為に骨髄液(bone marrow aspirate)が必要で、胸骨(sternum)に針を刺してそこから採取するというのだ。ただでさえ尖端恐怖症と言うか針が余り得意でないのにまた刺されるのだ。だが我慢するしかない。看護師詰め所の一角をカーテンで仕切った処置室に車椅子で連れて行かれ、ベッドに仰向けに寝かされた。これから私の担当になると言う先ほど診察室であったKB先生、私の左手首にカテーテルを挿し損ねた女性の若い先生(FS先生)、顔の大きそうな若手のTS先生の3人がおられ、TS先生が施術する様だった。

 胸をイソジンという茶色い消毒液に浸した綿棒で念入りに消毒された後、中央に丸い穴が一つ開いた大きな緑色の布を開いて胸を中心に被せられた。顔まですっぽりと覆われた為、あとは何が行なわれているのかぜんぜん見えず、不安が募った(私はじかに見た方が納得出来るというタイプである)。「今から麻酔(anesthesia)注射をしていきます。先ず胸に麻酔をします、ちょっとチクッとしますよ」TS先生の声が聞こえる。痛い。「もう一度今度は骨の表面に麻酔をしていきます、少しチクッと痛みますよ」ううっ、痛い。「どうですか、痛いですか」針か何かで皮膚表面をつついているらしかったが、もう何も感じなかった。痛くないですと答えると「では今から骨髄穿刺を行ないます。針を刺して骨髄液を取りますので、ぐっと押されますよ」骨を突き破らなければ骨髄には到達しないのは想像出来る。グッと胸が押され針がグリッと差し込まれる瞬間、麻酔の効きが悪いのか鈍い痛みがあった。ううぅ~・・・「今から骨髄液を採って針を抜きます。抜く時にグッと引かれる様な痛みがあると思いますが頑張って下さい」(経験したことのない感覚)・・・「はい、終わりましたよ」何も見えなかったが、そのつど声をかけてくれるのでその度に息を止めたり気構える事は出来た。しかし何でこんな目に遭わなければならない、とか、何で病気になってしまったのだろうと意味もなく涙が出てきた。止血の為の大きな脱脂綿を止めるのに超特大の強力な絆創膏をバッテンに貼られた。

 続いてTS先生は手慣れた様子で右手首にカテーテル(留置カテーテル)を挿入された。輸血用だという。左手首は先ほどFS先生に挿入して貰い損ねている。今度も挿される時は痛かったが、持続するひどい痛みはなかった。そうしてやっと施術室から病室へ戻り、止血の為30分程仰向けに寝る様にといわれ、しばらく安静にした。

 先生も看護師さんも入院患者さんも皆マスク姿。日常生活から隔離されたことは確かだった。病室はお盆に有名な山が正面間近に迫る、眺めのすばらしい4人部屋で、私の他には先輩患者さんが一人おられるだけだった。チラッと挨拶しただけだったが同じ病気の人なのだろうか。恐らく治療で毛が全部抜けているのだろう。マスクをし、毛糸の帽子を目深にかぶり、目だけがこちらを覗いている。なんだか怖い顔に見えた。自分も毛が抜けるとあんな風に怖い顔になってしまうのだろうか。そうだ、眉毛もなかったから怖く見えたんだ。治療でみんな抜けてしまうんだ・・・。独りになって検査入院のつもりで持ってきた荷物を自分に割り当てられたテレビ付きの収納棚とロッカーに収めつつ、不安でまた涙が浮かんできた。マスクは普段つけ慣れていないせいか眼鏡が曇ってとても鬱陶しい。姉が買っておいてくれたサンドを食べた時は既に15時20分。

 16半頃、今度は肺(lung)・腹部(abdomen)のレントゲン写真(an X-ray (photograph); a roentgenograph; a roentgenogram)、および心電図(electrocardiogram;ECG)をとりに車椅子で連れて行かれる。

 夕刻ようやく輸血(blood transfusion)してもらう。ところが色が違った。赤くないのだ。黄色に白を混ぜた様な不透明な液を何なのかと聞くと血小板(platelet)なのだそうだ。貧血もひどいが血小板が非常に少ないのでこの輸血を先にすることになったのか。赤い方(赤血球;red blood cell;RBC)の輸血は明日だと言われた。気が遠くなりそうだった。血小板輸血では人によって体が痒くなる等の症状が出る事があるので、異常が出たらすぐ連絡してと言われる。幸い、一瞬ポチッと水泡の様なものが腕に一つ出たがすぐに消え、痒くもなく無事に点滴する事が出来た。

2007-03-30

2006-03-27(月) 緊急入院

 母といつもの様に朝食をともに食べ、なごりのモクを母と共にする。そしていよいよ病院へ向かう前に母に「じゃ、検査入院に行ってくるね」と出来るだけ平静を装って言うと、母はまるで永久(とわ)の別れになるとでも言わんばかりの思い詰めた目をし、かすかに涙を浮かべつつ「頑張って」と言って、いつも繰って祈っていた木のロザリオを私の手に握らせ持って行けと渡してくれたので、思わず私も涙ぐんでしまった。後は言葉にならなかった。

 長姉に車でT病院まで一緒に行く。いよいよ輸血(blood transfusion)をしてもらえると思っていたが、一向に進展がなくそのうちK先生の診察になり、姉と共に診察室に行くと「月曜日はK大学から血液内科の先生が来ているからその先生に診てもらい、K大病院へ紹介状を書いてもらって検査をしてもらったらよいだろう」と、その先生に引き合わせてくれた。そこで急性白血病(acute leukemia;AL)の説明と現在の私の状態、今後どの様な治療が予想されるか等を女性の先生だったが詳しく丁寧に説明して下さった。話を聞くにつれ、初めて涙が止めどなく流れ始め、非常な不安と、病気になってしまった悲しみがこみ上げてきた。

 白血病になる原因は未だ不明の所が多く、発病の機序は良く分からないそうである。姉は先生に喫煙や仕事で使用する薬剤との因果関係があるのではないか、薬剤の場合、労災の申請が出来ないか等とネットで仕入れたらしい情報を色々聞いてくれていたが、そんな事は私にとってもうどうでもよい事だった。早速K大病院へ移動する事になり、看護師さんが貧血でフラフラの私の為に車椅子を押して来てくれ、白血病の人は免疫力がなくなってちょっとした事でも感染してしまうので感染防止にとマスクを持って来てくれた。救急車で行くかと聞かれたが、車で来ていたので姉の運転で直接向かう事にした。しかし、救急車を使わなければならない程、私の症状は急を要しているのかと内心驚いた。輸血はまた先送りとなり落胆した。一体いつになったら輸血してもらえるのだろうか?とにかく目下この貧血症状を何とかしてもらいたかったのに・・・

 11時20分にK大病院着、緊急扱いで「血液・腫瘍科」を受診。KB先生に経過説明をする。KB先生はマスク越しに眼しか見えないが、やさしそうな顔と声をしておられる。ここでも白血病と今後予想される治療法等の説明を受け、また涙が溢れてくる。取り敢えず検査入院のつもりだったのに緊急入院してすぐに治療開始した方が良いだろう、との事。徐々に白血病になってしまったという自覚を持たざるを得なかった。諸手続きは付き添ってくれた長姉がしてくれた。

 病室についた後、看護師さんから入院の心得等の説明。血液検査と輸血用に左手首にカテーテル挿入(留置カテーテル;indwelling catheter)を若い女性の先生がしにこられたが、これが耐え難く痛く、「もう入りましたよ」と言われても痛さが引かず我慢できず、思わず「痛い痛いっ!」と叫んだ為、そのカテーテルはすぐに抜かれた。血液検査が終わらないと輸血が出来ないそうだが検査する分の血液は採れたそうだった。長姉は私が今朝から輸血輸血と騒ぐので「もともと日光嫌いの吸血鬼みたいだったけど、さっきから『血、血』って言って本当に吸血鬼みたいになってきたね」と冗談を言う。ここで心配しているだろう母の事も考えて、姉には一旦帰宅してもらった。

2007-03-29

2006-03-26(日) 長姉上洛

 今朝もまた早く目が覚めてしまう。緊張しているのだろうか。インターネットで色々調べ物をする。また、明日検査入院しなければならいので、入院グッズをそろえてみたりする。

 昼頃次姉が、母より私の病名を聞いて手伝いに来てくれる。私の雑用に付き合って車で回ってくれた。次姉に実は白血病だと話そうかと思ったが、昨夜の長姉との話し合いの内容から、やはり私の口から告げるのは止める事にした。また治療には白血病(leukemia)にしろ再生不良性貧血(hypoplastic anemia)にせよ骨髄移植(bone marrow transplantation;BMT)がカギになるらしいので次姉にも「骨髄アテにしてます」と頼み込む。骨髄の型(組織適合抗原;Human Leucocyte Antigen;HLA)は一致している方が定着率は高く(移植の安全性も上がる)、姉妹なら4分の1の確立で完全一致するからだった。15時過ぎ次姉帰る。

 我が家の古くからの知り合いのAさんが偶然母の見舞いで訪れる。彼女は母と同い年の元大学病院の看護婦長(今で言うと看護師長)さんである。Aさんもご高齢なのだが、私の入院中、母をそれとなく見舞って下さいとお願いする。長期入院が考えられるからだ。それから間もなく長姉が到着した。今後の事を色々姉にお願いしたり一緒に相談する。取り敢えずやっと一安心する事が出来た。

 長姉を待つこの2~3日の間だけでも腕や足のふくらはぎに皮下出血が勝手に出現するし、急に紫色の斑点が腕や足のあちこちにポチポチと出始めた。不気味である。また息切れ(shortness of breath;SOB)や頻脈(tachycardia;pulsus frequens)はもう最高に悪化している。歩くのも出来るだけそろりそろりとゆっくり歩く様にしないと頻脈ですぐ心臓がドコドコ脈打ち、頭も痛くなった。母の前では出来るだけ心配させない様にと出来るだけ不自然でない様に、しかし極力ゆっくりと歩く様にした。

 一通り明日の用意が出来てから母といつもの様に酒盛りをした。母は歩行が悪くなるにつれ酒量を自ら減らしてきているが、自分は明日からひとまず入院なので、お酒の飲みだめとタバコの吸いおさめをする。「まるで不良だね」と長姉があきれていた。しかし、ひとまず入院などと口では言っているが、治療が始まってもしかすると死んでしまうかもしれない病気なのだと、どこか心の片隅で考えている。貧血の上、すぐに心臓もバクバクするので良くない事は分かっていたが、いつもにも増して酒量が上がって止められなかった。タバコに関しては4月1日から禁煙しようと考えてはいたのだが。。。

 治療入院となれば母としばらく会えない事になるし、母の世話もしてあげられなくなる、母の染毛もしてあげたかったのだが、母は体力的に今はしんどいのでと断ったのでする事が出来なかったのが残念であった。母に、「治療入院となったら長期になるらしいのでしばらく会えなくなるけど、留学したと思ってね」等と話しをしたり、急だったので検査入院の後の本入院の前に今回片付け切れなかった雑用などを済ませてから入院したいと思っている事などを話した。

 朝早く目が覚めるのに、今晩もなかなか寝付かれなかった。

2007-03-28

2006-03-25(土) 雑務を片付けていく

 母の為に毎週作っていたヨーグルト(Yoghurt;yogurt)の作り方をヘルパーさんに覚えてもらったり、小物等しまってある場所を覚えてもらったり等、小さな事だがしばらく入院してしまう事を前提にヘルパーさんにお願い出来る事を思いつく限りお願い(申し送り)する。そのほかに、気になる雑用をこまごまと出来る範囲でしていく。すぐに心臓バクバクの頻脈(tachycardia;pulsus frequens)になるのでなかなか能率は上がらなかった。

 休憩のたびに母の部屋へ行き、「検査ではもしかしたら悪い結果が出るかもしれない」とか、「実はO先生のところで血液検査の結果を聞いた時、異常細胞も見つかったと言われたので、あまり楽観出来ないかも」等と話し、いずれ白血病(leukemia)と母に教える時に備えて、伏せ駒になる様に状況を少しずつ母に雑談を交えて聞いてもらう様にした。母が私の病名を知ってショックを受けるのをやわらげ様と思っての事だが、勘の良い母は平静を装っていたが、少しずつ何かを察し始めていたかもしれない。

 夕食は母がヘルパーさんに頼んでレバニラ炒め等、貧血(anemia)に効きそうなご馳走を作ってもらっていた。週末は普段は私が炊事する事が多いのだが、忙しかった事もあり、母の気遣いに感謝しつつ一緒に頂く。レバーはあまり得意ではない方なのだが、鉄分補給、これで少しでも貧血が解消するのならばと頑張って一杯食べる様にし、母も私の食欲を見てまた安心した表情を浮かべていた。

 22:30 帰国したての長姉とようやく連絡が取れ、かいつまんで事情を話す。23:30頃自宅へ帰宅した長姉と電話で今後の事を色々相談する。そしてこの2日程の間に、やはり自分の口から直接母へ病名を打ち明けた方が良いかもしれないと思い直し始めている事を打ち明けた。しかし、長姉は母の多発性脳梗塞(cerebral infarction)という病気を考えると、私が直接話すとショックが大きいと思われるから、私の入院後に長姉の口から母へ話す方が良いと言われ、そうする事にした。長姉は明日京都の実家へ来てくれると言ってくれた。帰国直後でまことに申し訳なかったが、ありがたかった。

2006-03-24(金) T病院へ行くが

 いつもより早く目覚めてしまう。定刻まで待って母と朝食を済ませた後、車を運転して病院へ行こうとしたら、母が非常に心配してタクシーを使う様に強く勧めるのでタクシーで行く事にした。病名がはっきりしていないが極度の貧血(anemia)には変わりないのだから用心した方が良い、との事だった。なるほど。

 『T病院』に到着、待つ事しばし。K先生の診察を受けるべく診察室に入った。とにかくすぐに息が切れてしまい心臓がドクドクと頻脈(tachycardia;pulsus frequens)になってしまうので早く輸血(blood transfusion)か何かをして欲しかった。先生は紹介状と22日の血液の結果を見て私に少々問診等をされたが、一向に何か検査をする気配も無い。ただ白血病(leukemia;leukaemia)であるという事だけは一致しており、どんな質問をしてみても揺るぎは無かった。詳しい検査をして白血病の種類を調べる必要があるといわれたが、この病院では検査は出来るが白血病の人を入院させる設備(無菌室clean room)が無いので、よその病院へ行って治療する事になるだろうが、治療は長期にわたるだろうと話された。せめて輸血だけでも今して貰えないのかと尋ねると輸血には入院(hospitalization)が必要になるという。輸血によってショック症状を起こす人もいるので、入院して貰って輸血後のアフターケアをしっかりしなければならないそうだ。そして今から入院しますかと聞かれたのだが、いくらなんでも今すぐ入院というのは何の用意もしていなかったのでためらわれた。鉄分なり造血剤(blood-forming medicine;hematic;hematinic)なり貧血が改善する薬か何かないか、何か処方して貰えないかと聞いてみたが、輸血しか方法が無いらしかった。そこで、貧血でフラフラになってもいいからと覚悟して、来週の月曜日に精密検査を兼ね入院し、輸血して貰う事にして書類を受け取り、病院を後にした。

 このT病院のK先生というのは、かつて父が脳梗塞で入院した時の主治医で、後に母が脳梗塞で入院した時にもお世話になった先生である。この病院もこの先生も決して悪い病院・先生ではない、とってもいい病院でいい先生なのだが、うちの家族にとってはあまり良い印象を持っていない。
父は治療に納得出来ずすぐに退院した。母の時は処方された脳梗塞の薬のせいで急性肝炎(acute hepatitis)になっていたのに病院側は見逃して退院させた。退院後の母の体調がおかしいのに気付き、一週間で病院へ逆戻り。今度は急性肝炎で再入院した為、母は絶対安静を余儀なくされ、脳梗塞後遺症のリハビリ開始の一番いいタイミングを逸してしまったという経緯があった。明らかに薬害(drug induced suffering)であった(その1~2年後に死者も出して初めてニュースにもなった薬と同じ薬だった)のにそれに対して病院側はうやむやな態度を取り、人によっては副作用(side effect)で肝炎になることもあると説明しただけでなんの侘びも無かったのが印象的であった。そして病院側へ何のクレームも付けずに黙って退院した母(※)が、この病院内のリハビリ施設(institution for rehabilitation)でリハビリをお願いしたいと頼んだ時もやんわりと断られた。それやこれやを見てきているので、自分もこの病院へ入院するのはなんだか嫌だった。また面白い事にK先生側からも、よその病院へ行って欲しいというオーラーが感じられるのであった。気のせいだろうか?

 輸血してもらってくる、と言った割りに意外と早い帰宅に驚いている母に事の経緯を話すと、母は「あそこに入院しなくて良かった」といった返答をした。やはり母もこのT病院には思う所が一杯あるのだろう。私も「来週入院といっても検査だけだし、本格的治療はT病院では設備が無くて出来ないといっているから、よその病院でする事になるから安心して」と母に言った。

 問題は、元科学者で医学の知識も豊富な母に病名を何と告げるかであった。多発性脳梗塞と診断され、小さな梗塞(cerebral infarction)を少しずつ起こしているらしく徐々に運動機能が奪われ、体が弱っていく母にいきなりショックを与えて梗塞を起こしてもらいたくなかった。ワンクッションおいて知らせた方が良いのではないかと思った。
 また、母は病に倒れて以来、気丈に極力自分で出来る事は自分でと頑張ってきた。三姉妹の末娘である私は、母を出来るだけ手伝い、介護補助や母のして欲しいこと等、娘の私に出来る事をして支えてきた。姉たちも時々来てくれるが、恒常的にいる私が入院となると、やはり母の為に早急に何か手を打たねばならなかった。
 しかし、誰に相談したらよいか迷った。三人姉妹のうち長姉は関東在住だが子供も大きくなっており、いざ入院という事になった時に応援に来てもらえる可能性があったが、あいにく海外出張中で帰国予定日は土曜日だった。次姉は隣県在住でまだ小学生の子供がいるので時間的余裕がつきにくいと考えられた。

 母の古くからの友人でお医者さんのM先生に連絡を取ってみた。M先生は、母は聡明な人だからストレートに言うべきではないかと言われたが、私は非常に迷っていた。M先生に数日おいてから真の病名を知らせるつもりだが、ワンクッションおくとして、例えば慢性白血病(chronic leukemia;CL)というのと、再生不良性貧血(hypoplastic anemia)というのと、病名としてはどちらの方が聞かされた時のショックが少ない可能性が高いか聞いてみた。重篤な病気という点で変わりはないという先生に、敢えてどちらかを選ぶとしたら無理にお願いしたら、今回の場合を考えると再生不良性貧血かもしれない、との事だった。

 夕食後二人でお酒を飲んでいる時、母に実は再生不良性貧血だと言われたと伝えてみた。母はある程度覚悟をしていたらしく、この話を聞いた時「白血病でなくて良かった、安心した。」とホッとした口調で話すので、取り敢えずこれでワンクッションはおけたと思う一方で、内心、やはり白血病という病気は大変な病気なんだ(違いは良く分からないがイメージとしてはそうなのだろう)と実感させられる瞬間にもなってしまった。とにかく明日帰国するという長姉に何とか連絡を取りたいと思った。

※ (本文注:)ちなみに母がこの時、(全国的に処方されていたらしい、この)脳梗塞治療薬についてクレームを出したら明らかに新聞沙汰のニュースになったのは確実だったと後に母は話している。訴えなかったのは、姑も夫も自分もお世話になった病院に対して、事を荒立てたくなかったという。K先生も、医学知識が半端でなく豊富な母に対して、急性肝炎で再入院した後は訴えられないか非常に恐れていたのではないかとも母は推察していた。しかし、後にこの同じ薬で死者も出たというニュースを見た時、母はやはりあの時毅然と訴えていたら、こんなに死者が出ないうちにあの薬は使用中止になったかもしれないと考えると複雑な心境だ、と少々悔やみ、亡くなられた人のご冥福を祈っていた。

2006-03-23(木) 白血病と宣告される

 朝、いつもどおり荷物をまとめて家を出、電車を乗り継ぎ2時間半かけて神戸にある職場に到着する。但しすぐに息が切れてしまい心臓がドクドクと頻脈になってしまうので、出来るだけゆっくりと歩く様にし、極力エレベーター・エスカレーターを使う様にした。

 珍しい事に携帯に伝言が連続して入っており、見ると母からだった。母は何度も電話をかけてくれていたらしいが、移動中だったので気が付かなかった。するとまた電話がかかってきたので出ると電池切れになってしまった。電話をかけ直すと非常に深刻な声で母が、すぐにかかりつけのO先生に電話をする様にと言う。朝一番で先生から電話があったそうでどうやら昨日の血液検査の結果が良くなかったらしいのだ。あのO先生がわざわざ、それも朝一番で電話をかけてこられるとはただ事ではないと感じ、すぐにO先生に電話をかけた。

 お酒を良く飲むので肝臓の値が悪いのかと思ったら、血球数に異常が見られるという。O先生には珍しく慌てた様な口調で「赤血球(red blood cell count;RBC)もヘモグロビン(hemoglobin;Hb)も正常の半分位で貧血(anemia)だが、血小板数(platelet)も非常に少ない、白血球(white blood cell;WBC)も少ない。何よりも白血球で異常細胞(abnormal cell)が非常に多くて良くない状態です。紹介状(a letter of introduction)を書きますので、すぐに大きい病院で精密検査(workup)をして下さい。入院(hospitalization)も考えておいた方が良いです。」先生の話をメモしながら聞いていたが、異常細胞が非常に多いとのセリフを聞いた瞬間、急ぎ京都へ今日中に帰る決意をした。『先生は明言こそされなかったが、どうやら白血病になったらしい。先生は白血球が少ないと言われたが話の流れから恐らく“異常に多い”の言い間違いだろう、もし本当にそうなら、これは大変な事になった。。。』

 瞬時に色んな思いが頭の中をよぎったが、それどころではなかった。先生に今日中に帰る約束をして電話を切ると、恐らくしばらくは仕事が出来ない可能性がある為、出来る限りの残務整理をし、仕事もぎりぎりの時間まで、片付けられるだけ片付け、念の為に仕事用のパソコンをカバンに入れた。手のかかる急ぎの仕事が丁度一段落していたのがせめてもの救いだと思った。ボスには、昨日の血液検査の結果が良くなくひどい貧血である事などの連絡があり、大きな病院ですぐに精密検査を受ける様に言われた旨を伝え、取り敢えず今月一杯は仕事に来られない(休む)と話し了解を得た。

 夕刻、職場を出、神戸の住まいに立ち寄り、生ものの整理をした。しばらく入院という事態になった時の事を考えて、冷蔵庫の牛乳はその場で飲んでしまい、生卵は調理している時間もなかったので冷凍庫に放り込み、冷蔵庫にあるおかず等は無理やり冷凍庫に押し込んだ。管理人さんにしばらく留守にするかもしれないと伝え、万が一に備え、長期不在届けを提出してから、おなかタプタプ状態で電車に乗り、京都へ向かった。

 最寄りからタクシーを拾い、O先生の所に診療時間終了間際に滑り込んだ。先生は一般の血液検査報告書と「白血球分類検査結果がまだ正式に届いていないのですが、これがFaxで送ってもらったもの」という報告書の2枚を私に示して、「白血球数は79,800(標準が3,500~9,100)と非常に多く、そのうちの異常細胞が91%もある」と説明して下さった。体調が悪いとか極度の貧血とかでこういう数値が出てきたりしないかとか思いつく限りの仮定の質問したのだが、先生は「残念ながらこの数値からみるとあなたは白血病(leukemia;leukaemia)です。」と初めてはっきりと告げられてしまった。断言は出来ないが急性の白血病だろう、との事。

 早速紹介状を書いて下さったが、そのT病院のK先生は少々因縁があって受診するのがためらわれた。しかし症状は急を要するらしいので背に腹は替えられない。先ずははっきりとした病名を検査して調べて貰わなければならないと思った。しかし、あまりに貧血がひどくなってきたので何か薬を処方して貰えないかを聞くと、白血病なので、輸血(blood transfusion)をする事になるという。今日は無理なので、明日検査して貰う病院でして貰うしかなかった。母が病名を知ってショックを受けまた小さい脳梗塞(cerebral infarction)を起こしてしまうのではないかと恐れ、O先生に母にしばし病名を伏せておいてとお願いしてから待たせていたタクシーに乗って帰宅した。

 母には、少なくとも今月一杯は仕事を休む事、貧血で血球数等に異常があるので検査入院して詳しく調べてもらった方が良いとO先生から言われた事、明日紹介状を持ってT病院でもっと詳しく検査してもらう事、そこで輸血して貰えれば少しはこのひどい頻脈は改善されるだろう事等を伝えた。T病院と聞き母はちょっと顔をしかめたが、ひとまず無事に帰宅した私の顔を見て安堵した顔をした様だった。

 鼻をかむとなかなか血が止まらなくなってきた。夜遅くまで独りパソコンで白血病について検索してどんな病気なのか色々情報を集める。相変わらず少し動くとすぐに心臓がドクドク脈打つが、まだ自分の身に起こった事として捉えることが出来ず、他人事の様に感じてしまう。母は長寿(longevity)の家系なので、自分も寿命までまだ半分も生きていないと思っていたが、命が無いかもしれない。大変な病気になってしまった事だけは確かな様だ。【この日の手帳の最後には震える文字で『ぜんぜん実感がわきません!』と書いている。】

【血液検査結果】
WBC(白血球数)79,800 [/μl]高値、RBC(赤血球数) 2.27[/μl]低値、HGB(ヘモグロビン) 7.4 [g/dl]低値、PLT(血小板数)22,000 [/μl]低値、異常細胞91%、赤芽球(EBL) [1.0/100 WBC個]、
コメント:中型細胞でN/C比大、好塩基性が強く、核網繊細なものや核小体を持つものも見られます。
γ-GTP 212 [IU/l]高値、総コレステロール231(やや高め)、血清鉄(やや高め)、CRP定量 0.24(基準値内)

2006-03-22(水) 血液検査受診

 朝、だるいので少々寝坊していると、最近歩行が一層困難になってきた母(多発性脳梗塞で闘病中)が心配してわざわざ私の部屋を覗きに来たので、起床して一緒に朝食をとる。

 かかりつけの医院へは車を運転して行き、先生に頻脈(tachycardia;pulsus frequens)の症状を話すと即座に「えらい貧血(anemia;anaemia;oligochromemia)の顔色をしていますね」と言われ、早速、心電図(electrocardiogram;ECG;EKG)(こちらは異常なし)と採血された。「血液検査(blood test)の結果が出るのに2~3日かかります」と、次いつ来るかを聞かれたが、仕事があるので週末の土曜日に結果を聞きに行くと予約をとった。

 やはり貧血との診断だったので、次回までに特にビタミン(vitamin)とか鉄分(iron)を取った方が良いかと訊くと、「造血剤(blood-forming medicine;hematic;hematinic)等は血液検査の結果を見てから処方するかどうかを決めましょう。」との返答。相変わらずこの先生は商売っ気が無いというか、取り敢えずビタミンでも出して下さるのかと思ったのだが、何も出なかった。出して貰う時もお薬は必要最小限のものしか出さない先生なので、いつもとても安心して診て頂ける良い先生である。

 帰宅後、やはり貧血だった、詳しい結果は土曜日にもう一度行って検査結果を教えて貰う事になったと母に伝えると、安堵した顔をして、「土曜日はレバーなど鉄分補給の料理をヘルパーさんに作って用意して貰うから」、と母が言うので、「私は大丈夫だから、自分で作れるから心配しないで、お母さん自身がして貰いたい事をお願いして」と答える。

 このところ、普通に鼻をかむだけでちり紙に血がついてくる。

2006-03-21(火・祝) WBCで日本野球、世界一

 あまり野球を観たりはしない方なのだが、第1回WBC(World Baseball Classic)はつい魅せられてしまった。当初の意気込みとは裏腹に何度も日本チームは絶望視され、今度こそ終わりだと思われる場面を奇跡的に生き残り、ついに決勝を勝ち抜き、世界一になってしまった。イチローが、王監督が歓喜していた。母と一緒に応援し、そして祝った。ついひと月前にはトリノ・オリンピック(Torino Olympic)で荒川静香が見事な演技で金メダルを射止めている。このところ日本人の活躍はすごい気がする。

WBC世界一の余韻にまだ少々興奮しつつ、また少し息切れがする事から、母に最近頻脈(tachycardia;pulsus frequens)である事を話した。運動不足かと思っていたのだが、家の階段を普通に歩いて上っただけでも脈拍が一挙に100を超えて心臓がドクドク脈打って動悸(palpitation)が激しい等、余りにひどくなってきたので、これは少し変なのかもと思い始め、医学的の知識も豊富な母に相談してみたのだ。母は心配そうに首をかしげ、「インターネットで『頻脈』と入力して検索して調べてみて」という。早速検索して色々と見てみると、その原因に心不全(cardiac failure;heart failure)や心筋梗塞(myocardial infarction)といった心臓系の病気の場合、不整脈(arrhythmia;pulsus irregularis)、貧血(anemia;anaemia;oligochromemia)、呼吸器系(respiratory system)の疾患等の場合があるらしい事がわかった。早速母へ伝えると「ああ、それなら貧血だ、きっと。そういえば顔色悪い。明日O先生に血液検査(blood test)して貰った方が良い」との意見。自分は紫外線アレルギー(UV allergy)体質で太陽にあたらない様に気をつけている為、もともと肌色は白い。その為、貧血がひどくてもすぐに判らなかったのかも、と妙に母と二人で納得したりした。 

 そういうわけで急遽、明日はかかりつけのお医者さんであるO先生に見て貰いに行く事にした。また、このところひどくしんどく体調もおかしい事もあるので、無理はせず仕事は休む事にした。

2007-03-23

★☆★ はじめに ★☆★

 急性白血病(acute leukemia)と言われ2006年3月末、緊急入院。その間に自らも多発性の脳梗塞(cerebral infarction、cerebral infarct、brain infarction)で闘病(struggle)中だった母が癌(cancer)を発症し急逝。波瀾の骨髄移植を経て2007年1月退院すると一転、闘病中あれほど支えてくれていた身内から突然自分へのバッシング。最愛の母と暮らした実家を相続出来ず、離れなければならなくなった。現在通院療養中。。。独り実家で過ごしているが、敬愛する母と長年過ごした家が、今、無くなってしまうのは精神的に非常に辛い(もう少し猶予と願ったのだが)。頭の中は混乱中。。。今後どうなるのか、あと何日実家にいられるのかが全く分からない状態だが、いとおしんで過ごしたいと思う今日この頃である。

★現在の体調・ぼやき・出来事等を『生亜紫路2006』に記していってみたいと思う。ブログ経験がなく愚痴や嘆き等を現在進行形のブログでは書いてしまいそうで不安なのだが、なるべく見苦しくならない様に綴っていきたいとは思っている。そしてこの作業を通じて少しでも混乱した頭の中を整理出来れば良いと思うのだが、どうなるかは???

 ブログ『生亜紫路2006』は自分が体験した貴重な闘病記録として残しておきたいという意図で作成した。私の病気が分かった時、インターネットであちこちを見て特に入院当初がどんな風になるのか、治療がどんな感じなのかが詳細に書かれているHPを探したが見つからなかった。きっとみんな、いきなり治療開始でそんな猶予が無かっただろう事が伺われた。ダイジェストで書かれているものには出会えたが。結果的に私も現在進行形でブログを書く余裕など無かった。しかし入院治療の記録は素人なりにかなり詳細に残しているので、それを当時の気持ちを思い出しながら書いていきたいと思っている。専門家ではないので医学的に間違った記載をしてしまう所も出てくる可能性があるので、読まれる方は、その点よくご注意願いたい。ここでは、多分次第に記載が詳細になっていく為、読むのもしんどくなるかもしれないが、興味のある部分だけ拾い読みして貰えればよいと考えている。

 一般に白血病になる原因はいまだ不明な所が多いそうである。急性白血病と言われ、いきなり病院に幽閉されて社会生活から隔離され、未体験の化学療法(chemotherapy、chemo)が始まり、闘病以外にも色々な事件が起こった。人生何が起こるか判らない。これは誰にでも言える事だろう。しかし、同じ病気に罹り、初めて受ける治療等に山ほどの不安を覚える人にとって、この記録が少しでも闘病の参考になれば幸い、皆が無事に困難な病を克服します様にという願いも込めて記していこうと思う。